資料をわかりやすくするために、学習したうちのひとつを。

 

 

ビフォー・アフターはリアルが一番

講座でビフォーアフターの例をお話しする場合。
ビフォーのサンプルによっては、こんな資料って実際にあるかな?となることも。

ですので、サンプルはリアルが一番。私の場合は、内閣府のHPからお借りしています。関係者の方ごめんなさい。(もしよかったら、国民のためにも修正してみてください!の前向きな気持ちです)

ここのHPで、次の資料を見つけました。
ビジネスとしても、よくあるタイプですよね。背景というタイトル、本文はグラフが2つ。

そんなにモリモリではない。余白もあります。文字数も多くないですよね。(ギッチギチの資料もあるし)
でも、せっかくならもっと伝わったほうが良いし国民もラクですよ。

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どこからいこうか。文字かな。見るということ。あと、プレゼンもあるから音声を入れると、聞くも。そうすると、言葉ですか。

言葉となると、シニフィアン・シニフィエですか。みなさん、シニフィアン・シニフィエって聞いたことありますか?三茶にあるパン屋さんの名前じゃないよ。

講座は90分勝負なので、当日は触れる余裕がないことをここでは話してみます。

pan

 

シニフィアン・シニフィエ

これは美大の情報デザインのゼミで、まず耳にする言葉です。ゴロがいいよね。
その意味をウィキペディアに聞きますと。

シニフィアンsignifiant)とシニフィエsignifié)は、フェルディナン・ド・ソシュールによってはじめて定義された言語学用語。

200px-Ferdinand_de_Saussure_by_Jullien

あっ、ソシュールさん懐かしい!やめて!

 

シニフィアンは、フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」という意味を持つ。それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。

へー、そうすか。それでそれで?

 

日本語では、シニフィアンを「記号表現」「能記」(「能」は「能動」の意味)、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある

そう。記号ということなんですよ。文字って記号なんですよね。当たり前だけど。だから人用。鳥や犬が読めたら、いろいろいいのにね。そしたら私、小鳥用の文字を作るデザイナーになりたい。(脱線)

で、表現と内容が結びついていますよ。梅雨なら、「梅雨」という文字。「tuyu」という発音。そして、雨ジトジトいやよとか、ふわっとした紫色のあじさいに降りかかる片時雨(かたしぐれ)を窓から小首をかしげて見つめる女の子でもいいけども、イメージです。

 

前者がシニフィアン=記号表現、後者がシニフィエ=記号内容です。
そしてこの2つの関係は、

その関係に必然性はない。(記号の恣意性)

あー、恣意性もうヤメテ!

 

これはですね、木を見るでしょ。それを表現するときに、赤ちゃんや小さい子に「木」と書いたり「ki」と言ってやると通じるかというと、そうじゃない。

日本人が勝手にそう決めました。英語圏の人が勝手に「tree」にしました。そして、

 

必然性がないにもかかわらず、それが了解される体系のなかでは、必然とされている。

日本人が「木」を使ったら、木をイメージできるよねーと。そしてさらには、その木のイメージってみんな似てるよねと。「木」という名前の木はないのに、ボンヤリとした木のイメージがあるでしょ。それってみんなだいたい同じじゃん、と言うわけ。ここは実は重要です。

 

理屈っぽいよなー。でもデザインは理屈なので、しゃーない。

 

「木」って言ったら、こんな感じのがパッと思い浮かぶよねってことです。

tree

 

シルエットなら、こんな感じでしょ。
tree

でもさ、この木が何の種類のどういう名前なのか知らないし、そもそも存在しないでしょということです。

 

記号じゃ伝わりづらいよ

あと、パースさんとか出てくる(以下)。遠近法じゃないよ、人の名前です。ラングとか、パロールとか。パラディグムとサンタグムとか。舌かんだ。

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大学の授業『記号論』のさわりは、こんな感じ。もっともっと時間をかけてじっくり学びました。涙
しかしだから何?となるが、そこは自分で考えてねということなわけ。美大って!?

さて、言葉は記号で、ソシュールさんが示したように私たちは必然性を植えつけられて言葉を使っています。たいへん便利ですよ。でも、同時に不便でもあるんだよね。

例えば、手話という言語があります。
耳の聞こえない人は音声を手段にするのは不自然なので、手話を使う。

hand

(これ、「た」という手話の指文字です)

 

手話を使う同士は、十分に意思の疎通ができます。でも先日耳にしたところでは、手話ができても筆記が難しい場合があるそう。手話という言語と日本語がマッチしていない。シニフィアン・シニフィエが成立していないとも言えるのか。

相手は耳が聞こえない、こちらは手話はできない。そしたらホワイトボードで筆談だとステレオタイプで思いついても、筆談が難しいこともあると。手話使いの方は日本語の単語を書いたり読んだりできても、単語が複数あればそれぞれがどうやってくっついているかが「?」となる場合もある。

手話は完璧で単語も読み書きできるのに、文章になるとちょっとわからなくなっちゃうこともあるんだって。おもしろいよね!逆に、手話ってすごいと思う。面倒な「てにをは」とか必要ないんだもん。

 

・・・また脱線してしまいました。
以上のことを踏まえて再度、資料を見てみると。

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どうですか。

文章って、ものすごい理解のスピードが遅いということに気がつきませんか?シニフィアン・シニフィエして、それから文章にして全体の意味を理解しようとしてるわけ。

とにかく、

すげーイライラするよ!文字を追うっていう行為!と。(失礼。)

 

私は本が大好きなので、文字も大大大好き。小説がなければ生きていけない。分厚い本もなんその。けれども、上記のような資料にのっかている文字はこれほど少量でも「ゲー」となります。

 

なぜって、読む気がしないからです。
人の資料やプレゼンには、興味がないっしょ。

ここが大切なんですよ。
自分が言いたいことについて、誰も興味など微塵も持ってくれないということ。

だから「資料に書いてあります」とかそういうのは、情報がじゃんじゃん増えるだけでノイズ化決定!デメリットにしかならないと。

情報デザイナー歴20年の実体験から、そう思うわけです。

 

悪いことばっかり言ってしまったので、後日資料を修正いたします。許してくださいmi